【比較神論1】統一教会の教理とは

【比較神論1】

統一教会の教理とは

第1・第2イスラエルの救済観に続き、これから第3イスラエル・統一教会の救済観について話を進めるために、まずは、救済論と密接な関係にある神論について、ここで触れておきたいと思います。

さて「キリスト教の救済論」が、様々な点で「ユダヤ教」との“対比”、あるいはその“反動”というかたちで、その論理が展開されていたように、「統一教会の救済論」も、今度はあらゆる点で「キリスト教神学」との“対比”という観点から、その神学的理論は展開されています。
(もちろん、「統一原理」の掲げる主要なメッセージは「宗教統一」なので、「キリスト教」だけがその比較対象ということではありませんが、現実には『原理講論』のほとんどの論述は、対キリスト教的、すなわち「聖書」の解釈が中心となっています。)

しかし、「統一原理」と「キリスト教神学」との比較は、ある意味では全く“正反対”とも言える「共産主義」や「無神論的唯物論」等との思想的比較とは大きく異なり、その大部分は、必ずしも“間違っている”ということではなく、あくまでも摂理的、時代的制約による、「真理」に対する“部分的理解” に留まっているとの指摘なので、いわば、その“不足点”や“部分性”を補うというかたちで理論は展開されています。

ところで「統一教会の救済観」の内容について考える前に、はっきりさせておかなければならないことは、そもそも“統一教会の「教え」、すなわちその「正式な教理」とは何か”を決定することは、それほど単純なことではない、ということです。

一般的に、宗教団体における「教理」は、そのほとんどの場合、その宗教を興した「教祖」である人物が“語った内容(あるいは受けた啓示)”が、いわゆる「教典」とされるわけですが、統一教会の場合、教祖である文鮮明先生の直接の『御言』ではなく、弟子である劉孝元先生が書かれた『原理講論』や、金永雲先生の『統一神学』、李相憲先生の『統一思想』などが、「統一教会の教学」の成立にあたって、極めて大きなウエイトを占めているということです。
(このような傾向が、文先生のご逝去された“後”ではなく、まだ“ご存命中”にも起きていたということは、他の宗教団体には余りみられない不思議な現象と言えますが、そこには深い摂理的意義があったことが『御言』の中には示唆されています。)

特に『原理講論』が、まさに“統一教会の「教典」的位置”にある“特別な書物”であることについては誰も異存はありません。
しかし、その『原理講論』は、1966年5月1日に発刊されて以来、一度も「改訂版」も「続編」も出されてはおらず、文先生がそれ以降にお話された内容は一切含まれていないのです。したがって『原理講論』が文先生の“思想全体”を網羅していないことは明らかなことであり、そもそも『原理講論』自体が、その「総序」において、その“部分性”と“不足点”についてはっきりと言及しています(38頁)。

さらに、統一教会には、『原理講論』『統一神学』『統一思想』以外にも沢山の“教理解説書”や、古い先輩達による講話等が出されていますが、それぞれ“文先生の思想”の解釈をめぐって、微妙に意見を異にしています。
従って、統一教会には様々なタイプの“教学的見解”が乱立し、それぞれが自らの正統性を主張するという、まさに思想的群雄割拠といった状況なのです。
ゆえに、私が“統一教会ではこう言っておりますが…”といっても、それは、必ずしも統一食口全員の見解を代表しているわけではないことは言うまでもありません。

いずれにせよ、このような「教典」をめぐる問題の詳細については、稿を改め、「教典論」として、まとめてお話をしてみたいと思っております。

※次回の本シリーズは「統一教会の神観」をお送りします。


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2015/07/03(金) | 比較神論 | トラックバック(-) | コメント(0)

【比較神論2】統一教会の神観(1) 「原理の神」と「愛の神」/「父なる神」と「父母なる神」

【比較神論2】統一教会の神観(1)

「原理の神」と「愛の神」/「父なる神」と「父母なる神」

●「原理の神」と「愛の神」

まず、「神」に対するとらえ方ですが、「キリスト教神学」が「神」を“正義の神”と同時に“愛と赦しの神”としてとらえ、しかも後者によりその本質的な姿を見ようとすることに対して、「統一原理」も基本的には同意します。これらの神の“二つの側面”は、「神の心」がもつ「知的側面」と「情的側面」のことであり、原理的に表現すれば、「原理の神」と「心情(愛)の神」 ということになるでしょう。

この「原理の神」と「愛の神」というのは、「救済論」という観点からは、罪を“赦せない(=償いを要求する)”という性質と、罪を“赦そう(=恩寵)”という性質が、互いに“相克”しているということであり、その矛盾した性格(…一見そのように思われる)を如何に“調和的に理解すべきか”ということについて、キリスト教神学がどれほど苦慮してきたのかは、既に述べてきたとおりです。

この問題は、「心」の基本的二要素である「情感性と理性」がもつ、「自由性と規定性」、あるいは「偶然と必然」という存在論が抱える根本問題なので、その詳細は又稿を改めて論じたいと思いますが、結論から言えば、この二つの要素は、決して「矛盾性」ではなく、まさに「相補的、相対関係」であり、「存在」とはこの“両者”があってはじめて“存在たりえている”ということを理解する必要があるでしょう。


●「父なる神」と「父母なる神」

さて、伝統的キリスト教は、「父なる神」として、神の“父性(男性)”を強調してきました。
もちろん、キリスト教の中にも、近年に入り、K・バルトやスウェーデンボルグ、あるいは女性神学者メアリー・デイリー等によって、神の“両性(男性と女性)”を認める神学も登場しますが、決して主流的、正統的見解というわけではありません。又、カトリックにおける「マリア信仰」も、ある意味では、キリスト教の「男性神」を補うものだったとも言えるでしょう。

これに対し、「統一原理」は明確に神の“父母性(陽陰の二性性相)”を主張します。
しかし、では、統一教会の主張する「神の父母性」とは、一体どのようなものなのでしょうか。もう一度その概念を検討してみる必要があるように思います。

キリスト教の神の「父性」は、ユダヤ教の神の「唯一神」からくる「主=男性」とは異なり、「三位一体」としての神概念からきています。
つまり、神自体の内部にある二つの「人格(ペルソナ=位格)」すなわち「父なる神」と「子なる神(キリスト)」という、いわば“人格”と“人格”とが向き合う、相互に“独立”した関係から導き出されています。(但し、「父性」といっても「母」はいないので、「男性」という意味はさほど強くはありません。むしろ「中性」的存在であり、“神は男なのか、女なのか?”などと問いかけること自体無意味だと考えています。)
重要なことは、ここで言われている「父と子」というのは、決して一人の神の中に「父性」と「子性」という“二つの性質がある”という意味ではないということです。(もちろん既に述べたように、キリスト教神学には「様態論的三位一体」のように、「一人」の神の「三つの様態=性質」という立場もないわけではありませんが…。)

統一教会は「二性々相の神」を説きますが、それはそのまま「父母なる神」を意味しているわけではありません。統一教会の神の「二性々相」は、「本性相と本形状」と「本陽性と本陰性」の二つですが、あくまでも前者が神の「本質」であり、後者は「本性相と本形状」の「属性」とされています。(『統一思想要綱』では、「性相と形状」の二性々相は“神の直接的属性”、「陽性と陰性」の二性々相は“神の間接的属性”と定義されています。<40頁>)つまり、本質は「性相と形状」の二性々相のほうであり、決して「四性々相」ではないということです。

「属性」とは“本質が現象化するときの基礎形式”とも定義されるように、それ自体が“実体”として存在することはできず、あくまでも「実体」といえば、第一義的には「性相と形状」の“統一体”のことを意味します。その実体の「性相」と「形状」のそれぞれが“現象化(=実体化)”するときに、必ず「陽性と陰性」という“相対的性質(規定性)”を帯びるようになるということです。

例えば「人間」の場合、まず「心と体」(=性相と形状)があってはじめて、「人間」としての「実体」が存在し、その実体の「性相(心)」と「形状(体)」が、それぞれ「陽性と陰性」、「陽的部分と陰的部分」をもっているということなのです。
つまり、「陽性と陰性」の本質的定義は、「男性(男子)」であるとか、「女性(女子)」であるとかいう前に、まず“一人”の人間の「心と体」がもつ相対的性質(属性)を指しているということです。

つまり、統一教会では「陽性と陰性」と、「男子(陽性実体)と女子(陰性実体)」の概念は明確に区別されており、あくまでも神の内部には、「陽性と陰性」は“ある”が、「男子と女子」は“いない”ということです。独立した人格を有する「男子と女子」は、現象化(=実体化)した世界(被造世界)にのみ存在し、神自体は「心(本性相)と体(本形状)」をもつ“一人の存在”であるということです。

したがって「父母なる神」といっても、決して「父なる神」と「母なる神」とが“二人”いるということではなく、「父としての性質」と「母としての性質」とを両方もっているということに他なりません。これはちょうど、ユングが主張した「アニマ」(男性の中の女性の性質)と「アニムス」(女性の中の男性の性質)という概念によく似たものと言えるでしょう。ただし、人間と異なるのは、神の中の「アニマ」と「アニムス」は“等量”であり、“中和”しているということです。

神観の相違
※クリックすると拡大します

さて、そうなるとキリスト教が、被造世界にある「」の原因はそもそも神自体になければならないとして、神の“内部”に「愛の交わりの原型」としての“複数の人格構造”を求め、「三位一体」という神観に到達したのに対し、統一教会の神観は、結果的には、神の“一者性”が強調され、むしろユダヤ教的「一神教」にバックしてしまった感があるということになります。

『統一神学』(金永雲)では、キリスト教の神の“父性”に対して、統一原理の“父母性”すなわち「両性」が強調されていますが、『原理講論』と『統一思想』では、神の「性形」による実体としての「一者性」が強調されています。しかも『原理講論』では、神が被造世界に対し「男性格主体」であることがはっきりと述べられています。

もちろん「成約原理」も、「統一原理」と同様、神の“唯一性”“絶対性”“超越性”それ自体を何ら否定するものではありません。したがって、従来のギリシャ神話的、神道的「多神論」を、そのまま手放しで容認するということでもありません。

ただ、統一教会の「神観」は、基本的には「西洋的、ユダヤ・キリスト教型一神教」の神観をそのまま踏襲しているきらいがあり、このままでは、「多神論」「汎神論」といった「東洋的神観」を、思想的に十分に包含し“止揚統一”することは極めて難しいと言わざるを得ません。「多神論」「汎神論」という言葉に対しても、十分な考察がなされないまま、至極当然のごとく“非真理”として扱われてきた感があります。

確かに「統一原理」は、西洋的、存在論の基本である「精神と物質」あるいは「唯心論と唯物論」の止揚統一問題に関しては、かなり力を入れて論じてはいますが(特に「勝共理論」等で…)、「キリスト教」と「仏教」、あるいは「一神教」と「多神教」、「超越神」と「内在神(汎神論)」といった、“東西の宗教統一”に欠かせない「本体論(神論)」の止揚統一問題に関しては、決して十分な論述がなされているとは言えません。

※次回の本シリーズは「四大心情の神」をお送りします。


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2015/07/04(土) | 比較神論 | トラックバック(-) | コメント(2)

【比較神論3】統一教会の神観(2) 四大心情の神

【比較神論3】統一教会の神観(2)

四大心情の神

文先生が、“神は「四大心情の神」である”と語られる場合、それは“神自体の内部”に、「親子の愛」や「夫婦の愛」が明確に“存在している”ことを意味しています。「」は必ず、愛する「対象」を必要としますから、神が被造世界を創造される“”に、既に神の中に「親と子」「夫と妻」という、相互に愛の流れが起きる「基点(位置)」が存在していたということを意味しているのです。

つまり、神の「心」が既に「愛の心」として存在していたということは、神の心に愛が流れる「構造」が作られていたことを意味しているのです。

その「構造」は、“一者”という観点からは、「知・情・意(「成約原理」では「心」は「情感」と「理性」の二要素で成り立っており、「意志」はその二つの結果的“合力”とみています。)になりますが、「」という観点からは「複数の人格構造」、すなわち、結論から言えば、四大心情(厳密には八大心情)を生み出す「家族的四位構造」であったということになります。(そして、この「構造」こそ、「自然法則」と同様、人間社会の「倫理法則」の根本原因となっていることは言うまでもありません。)

図らずも、キリスト教が「愛の原型」としての「三位一体」を主張したことは、原理的にも極めて意義あることですが、残念ながら、「キリスト教的三位一体」の中にある「愛のバリエーション」は、「父子の愛」のみにとどまっています。「父」と「子」以外に「聖霊」もありますが、そもそも「聖霊」と呼ばれる位格(ペルソナ)が、一体どのような存在なのかはっきりしないので、「父と聖霊」および「子と聖霊」の相互にある愛が“如何なる種類の愛”なのかを確定することができません。
「子」は「父」から“生まれた”ので、明らかにその相互間の愛は「父子の愛」ですが、「聖霊」は「父」や「子」から“発出された”存在ということで、“生まれた”のでも“造られた”のでもないので、一体その存在に対する愛が“如何なるものなのか”を特定することができないのです。
(そもそも「発出」という言葉は、如何なる概念なのでしょう。「生む」も「造る」も、「出る」ということには違いないので、両者の要素を含んだ“中間的存在”ということにでもなるのでしょうか。「聖霊」は、「父」や「子」から“遣わされる”とも表現されていますが、かといって、もちろん「天使」のような「僕」という存在でもありません。いずれにせよ、「神の愛」を理解するためには、“聖霊とは何か”を知ることが、極めて重要な鍵を握っていることがわかります。)

キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれるように、「」はまさにキリスト教のメッセージの中核的概念です。しかし、その肝心の「」が、具体的には“如何なる内容”をもつのか、決して明確ではないのです。“アガペーの愛”とか“見返りを求めない愛” “分け隔ての無い愛”などとも表現されますが、その内容は、基本的に「慈愛」や「博愛」「兄弟愛」に近いもので、決して“愛の全てのバリエーションを満たしてはいない”のです。特に神自体の中に(「父子の愛」はあっても)「男女の愛」の“原型”は、全く認められてはいません。(ただし、K・バルトは“神の像”としてそのことに言及している。)

「恋愛」や「夫婦愛」、「性愛」といった「男女愛」は、基本的には“エロースの愛”であり、 “堕落世界における愛”とみなされているのです。したがって福音主義的伝統神学では、来るべき「天国」には存在しない種類の「愛」であるというのです。

その点、統一教会は、はっきりと“愛とは「分性的愛」である”ことを主張しています。したがって、その基本的バリエーションは、「家庭的四位基台」の構造の中にあり、“家庭がなければ「愛」は成立(育成)しない”ことを力説しています。

「キリスト教的三位一体」も、統一原理が主張するように、いっそのこと「聖霊」を「女性格」とみることができれば、「父」からみた「子なるキリスト」は単なる「子」ではなく「息子(男)」ということになり、「聖霊」は「娘(女)」となるので、実にすっきりとした「愛の原型としての三位一体」となるように思えます。

ただ、「息子」と「」は永遠にその位置にとどまるのではなく、それぞれ “成長”し、やがて「結婚」を通じて「夫婦」となり、二人の間に更に「」をもうけることによって「父母」となるべき位置にあります。したがって結果的には「正(神)―分(夫婦)―合(子)」という四つの位置ができることになるので、「三位一体」ではなく、「四位一体」というのが、より正確な呼び方ということになるでしょう。

※次回の本シリーズは「父なる神・父母なる神・家族なる神」をお送りします。


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2015/07/06(月) | 比較神論 | トラックバック(-) | コメント(0)

【比較神論4】統一教会の神観(3) 父なる神・父母なる神・家族なる神

【比較神論4】統一教会の神観(3)

父なる神・父母なる神・家族なる神

さて問題は、統一教会は「愛の定義」としては、「家庭的四位基台」をベースとした“分性的愛”を主張していますが、その「構造」は、神自体の“”にはなく、あくまでも「現象化(実体化)した世界(被造世界)」、それも「物質的地上界」に“だけ”存在するとしていることです。

既に述べたように、統一教会では、神自体は「(本性相)と(本形状)」のみをもつ“一人”の存在です。
実は、この神の「本質」とされる「性相と形状」の関係については、もう一度再検討してみる必要があるように思われます。つまり、文先生が、神は「四大心情(=四大愛)の神」であると言われる場合、神の「陽陰」を「父母性」、つまり「男女愛の原型」とみるだけではなく、「性形」の関係をも、“愛の原型という観点”から、もう一度捉え直してみる必要がありそうです。(もちろん、そのためにはそもそも“「本形状(質料)」とは何か”ということも再検討してみる必要があるでしょう。)

『統一思想』では、「神の属性」のことを「原相」と呼んでいます。「原相」は「神相」と「神性」からなり、「神相」は神の“”の側面を表し、「神性」は神の性質、性禀、能力などの“機能”面を表しています。「神相」は「普遍相」と「個別相」からなり、「普遍相」は「性形の二性々相」と「陽陰の二性々相」のことです。(図参照)
「神性」は、神の心の“機能”のことであり、「心情」「ロゴス」「創造性」の三つがあるとされていますが、これはそのまま一般的に言われている「心の三機能」である「情・知・意」の働きにほぼ該当するものとみることができます。(もちろん厳密には「知・情・意」は「神性」ではなく「神相」の「性相」の中にあるとされていますが…)したがって、これは言ってみれば“一人の神としての側面”ということができるでしょう。

統一思想の神観
※クリックすると拡大します。

問題は、「神相」という「神の“かたち”」の側面ですが、これは、本当は“一人の神”の「心と体」(「性形」とその属性としての「陽陰」)というよりも、神の内部に「愛の形(構造)」すなわち「親子」―縦的時間軸上の愛=「性形」と、「男女」―横的空間軸上の愛=「陽陰」」という、「時空的構造としての家族的四位構造」が存在しているという事実を示しているとみるほうが、より『御言』に近い理解のように思えます。


ところで、この“神は「一者」なのか、それとも複数の人格構造をもつ「多者」なのか”という問題は、未だに、東西の宗教がこの問題をめぐって決着がつかないことをみても、そう簡単には解決できない難問であることは確かです。

神は愛である」といった場合、その「愛の対象」、あるいはその「愛の構造」が、果たして神の「内部」にあるのか、それとも「外部」にあるのか、といった問題は極めて重要な神学的課題といえます。

キリスト教の場合、「三位一体」は明らかに神の“内部構造”であり、したがって神は“愛において”も“自己充足”的であることを強調します。つまり神は自らの中に“愛し、愛される関係(すなわち、父が子を愛し、子が父を愛する関係)”をもっており、そこにおいて“充足している”ので、ことさらに、自分の外部に「愛の対象」を必要としてはいないということなのです。したがって、被造世界の一部が堕落によって消滅しても、極端な場合、全部無くなってしまったとしても、「愛の神」自体には何の影響も及ぼさないというのです。

これに対し、統一教会は、“キリスト教の神(三位一体)は、結局「自分で自分を愛している」ということであり、それは「自己愛」であって、「真の愛」ではない、「愛」はあくまでも「利他愛」でなければならない”と主張するのです。
したがって、神は不可避的に、自分の“外部”に、真の「愛の対象」として、「被造世界」を創造せざるを得なかったのだというのです。

つまり、神は単独では「愛の神」になることはできず、あくまでも“被造世界との関係”でのみ、「愛の神」足りうるということなのです。
したがって、統一教会の神にとって、「被造世界」は“あってもなくてもどうでも良い”といったような、いい加減な存在ではなく、まさに神が「愛」であるためには、なくてならない“必須的存在”ということになるのです。

しかし、統一教会の見解のように、神は被造世界を創造される“”は、本当に“「愛の神」ではなかった”ということなのでしょうか?
言葉を代えると、被造世界を創造されるまでは、ずっと“一人だけでおられた”ということなのでしょうか?

「成約原理」が到達した、文先生の『御言』にみる「神観」の結論は、
神は「一人」ではなく、「家族」であった!
という、まさに衝撃的なものでした。
ただし、より厳密に表現するならば、“「一人」ではなく”ではなく、“「一人」であると同時に「家族」であった!”ということになるでしょう。
(ただ、この表現だと、結局従来のキリスト教型の「三位一体」と同じで、“三つであって一つ、一つであって三つ”というのは“非理性的ケリュグマ(啓示)”であり、したがってそのまま“信仰”で受け取るべきであると、キリスト教が言い続けてきたのとさほど変らないことになるので、今後その概念の詳細については説明していかなければならないでしょう。)

「愛」が成立するには、「自分」だけではなく、どうしても「他者」が必要です。
問題は神にとって「他者」とは“どこに”いるのか、ということです。

結論から言えば、“「概念」と呼ばれる次元に「他者」は存在していた”ということになるでしょう。文先生の『御言』によれば、
“神には「愛の概念」はありましたが、「愛」はありませんでした”と表現されています。
しかし、もちろんこの『御言』から、直ちに、神は“愛ではなかった”と結論付けることはできません。前者の「愛の概念」と、後者の「」が、一体どのような意味で使い分けられているのか、もう少し正確にその概念を把握する必要があるでしょう。

統一教会の神も、“一者”ではありますが、「本性相」の中の「内的性相」と「内的形状」との働き(授受)によって「ロゴス(構想)」が形成されており、その中では「親子」「夫婦」といった「家族的構造」が、既に“青写真”として “思い浮かべられて”います。しかし、そこにおける「家族」は、単なる“静的なイメージ”であり、リアルな “情的交流”がそこでなされ、神もその愛の情的内容を“感じ取っている”というわけではありません。

『統一思想』では、そのような“静的構想”は、ロゴスの「前期」(「前ロゴス」または「前構想」という<『統一思想要綱』110頁>。)であり、そのあと、ロゴスには「心情(愛)」によって「知・情・意」が注入され、「後期ロゴス」として「生きたロゴス」となることが書かれています(同115頁)。

先ほどの『御言』にある神の「愛の概念」は、この「後期ロゴス」すなわち「動的ロゴス」の概念に、(完全に一致するということではありませんが)極めて近いものと言うことが出来るでしょう。
ただ「後期ロゴス」は、明らかに神の「心」(知・情・意)によって創造された「被造物」であり、「生きた新生体」とされているので、もはや“神自体”とか、“神の内部にある”とみなすには問題があるでしょう。
したがって、神の「一者性」を強調する「統一思想」の神観(原相論)からみても、実体的創造が始まる“前”に、既に「神にとっての他者」が存在していたと見ることは、あながち誤りとは言えないでしょう。

もちろん、その後の「本形状(質料)」を用いての「実体的創造」がなされる“”は、あくまでも「概念の範疇」の中にあるので、「完全な他者」とは言えない“段階”であることも又確かな事実と言えます。
(ここに、何故神が、最終的な「完全な他者」である「実体的、物質的次元の被造世界」を創造しなければならなかったのか、その理由もはっきりと見えてきます。)

いずれにせよ、“愛が成立するか、否か”は、自分の外に“他者がいるのか、いないのか”ということと同じ意味であり、もし文先生が、創造以前の神が、既に“四大心情(=愛)の神”であったと言われるならば、「概念上」という制約があったとしても、明確に“神自体”が“他者”を内包する「複数の人格的構造」をもっているということに他なりません。

※次回の本シリーズは「心と体をもつ神」をお送りします。


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2015/07/08(水) | 比較神論 | トラックバック(-) | コメント(2)

【比較神論5】統一教会の神観(4) 「心」と「体」をもつ神

「火に油を注げ!」の鞍馬天狗さんが、ブログ上で広研に関するメッセージを書いてくださいました。とてもありがたく思っております。
これからも立場に縛られずに、学問的に自由に神学上の問題に切り込んでいきたいと思います。よろしくお願いいたします。


※【比較神論4】からの続きです。
【比較神論】シリーズ一覧は、こちらからご覧ください。


【比較神論5】統一教会の神観(4) 「心」と「体」をもつ神

※用語解説 【統一原理と成約原理】
本ブログにおいて、
統一原理」は主に原理講論に基づいた思想体系であるのに対して、
成約原理」は文先生の御言に基づいた思想体系全般を表す言葉として使用しています。



さて、キリスト教の神は「質料」を全く内包しない“唯心一元論”の神です。
言ってみれば、神は“精神のみ”か、“心のみ”ということです。
キリスト教が「神」の中に「物質」的要素を全く認めないというのには、下記のようないくつかの歴史的要因があると考えられています。

▲キリスト教の前身である「ユダヤ教」自体が、物質的世界から超越した「創造主」としての神を強調し、神は“無形”である故、一切の“偶像礼拝”を禁止した。

▲キリスト教の教義形成過程において、「ギリシャ哲学」のもつ様々な要素との融合が起きた。プラトンの「イデア論」、アリストテレスの「不動の動者」「形相と質料」といった概念がキリスト教に取り入れられた。「イデア論」では、物質的世界はイデア界(本体)の「影」であるとみなされた。「形相と質料」論はいわゆる「精神」と「物質」の物心二元論ではあったが、質料よりも「形相(原理)」の優位性が主張された。特に中世に入り、アリストテレス哲学との融合を目指したスコラ哲学(トマス・アクイナス等)において、神自体は「質料」を全く含まない「純粋形相」とみなされた。

▲初期キリスト教時代において、「グノーシス主義」と呼ばれる極端な霊肉二元論の影響を受け、肉的、物質的なものを「悪」とみなす傾向が生じた。

――などといった点が指摘されています。

このようなキリスト教的「唯心論」に対し、「統一原理」は、性相(精神)と形状(質料)を共に内包した“物心一元論”を主張します。つまり、「唯心論」でも「唯物論」でもない、両者を止揚統一した新しい存在論である「唯一論統一論)」を主張しています(『統一思想要綱』37頁)。

さて、この統一原理が主張する「唯一論」は、果たして本当の意味で「精神」と「物質」との“一元化”に成功していると言えるのでしょうか?
この問題は、本当は「統一原理(原理講論を中心とした思想)」と「成約原理(文先生の御言を中心とした思想)」との“神観の比較”の項でお話しすべきことではありますが、本稿のメインテーマが“救済観”なので、ここで少しその詳細に触れておこうと思います。

『原理講論』では、タイトルからして「神の二性々相」となっていますから、「一」であることよりも、「二」であることが強調されているので、神の「本性相」と「本形状」が、神の中で如何にして“一元化(中和)”しているのか、といったことについては述べられていません。

『統一思想』に出てくる「本性相」内の「内的性相」と「内的形状」といった概念の説明もありません。
したがって、「統一教会の神観」を理解するには、どうしても統一思想の「原相論」の解説を参考にせざるを得ません。

心情と正相と形状「原相論」の構造については既に図示いたしましたが、ここで最終的に、神の存在論的要素として“三つ”のものがあることが分かります。
それが「性相」と「形状」と「心情」の三つです。

『原理講論』の「神の二性々相」論では、「心情」という言葉は出てきませんが、『統一思想』では、「性相」と「形状」を結びつける“共通因子”として「心情」という要素が登場してきます。

『統一思想要綱』56頁にはその三つの関係を示した図がありますが(図参照)、一見「二性々相」というより「三性々相」、あるいは「心情三相論」といった感があります。
もちろんこの図そのものは「本性相」の内部構造を表わしているのですが、89頁の「原相の二段構造」の「外的四位基台」の説明を見ると、この三要素が同時に「原相(神)の構造」でもあることが分かります。

『統一思想』も、もちろん「三性々相」という立場ではないので、「心情」は「性相」と「形状」が授受作用する時の「中心=共通因子」ということで、存在するのはあくまでも“性相と形状のみ”ということです。

したがって「心情」は存在論的な意味合いが強い「神相」ではなく、「神性」という“神の性質”の中に分類されています。
しかし、もう少しつっこむと、「陽性と陰性」と同様に、「性相と形状」も、神(唯一者)の中では中和(統一)している、すなわち未分化であるとも説明されています(『統一思想要綱』142頁)。

唯一論からみた性相と形状の異同性『統一思想要綱』37頁の図を見ると、被造世界の「性相と形状」は、「唯一者」から出てきたものということですが、この初めの一点が神(唯一者)であり、この一点の中に「本性相」と「本形状」が“中和した状態”であるということです。

しかし、もし「一元論」を強調するのであれば、「性相と形状」という二つの働きに“分化する前”の状態を直接表わす単語を用いることがベターのように思われます。

※次回の本シリーズは「「心情」と「前・心情」をお送りします。


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2015/07/13(月) | 比較神論 | トラックバック(-) | コメント(5)

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